日光駅ー中禅寺湖-金精峠(1830m)-沼田駅:(2016.9.1-2)←
2016年09月08日 15:15もう一度訪れることを願っていた場所を丁度50年後の今年訪問することが出来た。 それはただ若くエネルギーに満ち溢れていた18歳の夏、大学で知り合った友人に東京方面に自転車の旅をすることを話すと、長野の自宅まで来ないかと提案があり、困難さも何も考えもしないまま自転車ツアーで訪れた。 その復路は往路とは異なるルート、3桁番号の国道を選択した。 国道とは言え当時はあちこちの区間に未舗装部があった沼田市から菅沼、丸沼金精峠を経て中禅寺湖に、そしていろは坂へ通じる道であり、忘れられない程つらくも楽しかった思い出がある。 一日では峠を越えることができず、雑木林の生い茂る砂利道は薄暗くもあり、いつしか闇がせまるも分かれ道や、広場を見つけることも出来ず、やむなく道の左端に道路に平行に寝袋を敷きそして車走行側に平行に自転車をスタンド置きして境界をつくり、公道に勝手に2m四方の仮設キャンプ地を作ってしまったことである。 一夜で体感したのは幸いに車一台の通過のみであった。2日掛かりで峠を越えた苦く今では考えられない無謀と言えるサイクルツーリングの思い出とそれが故に峠のトンネルを出るや眼に飛び込んだ遠くに見る中禅寺湖の風景が忘れられず。 丁度50年が経過するこの年に 以前とは逆のルートを自転車で訪れる計画である。 とは言え日頃のランで体力の低下は十分に認識もしているので、走行距離もショートカットし日光駅をスタート点に選び輪行で計画し、いろは坂から中禅寺湖
金精峠を経て沼田駅までを走ることにした。
日光駅を背に右へ
すぐに勾配の道で
気合いが入った。 しばらくすると
ヘアピンカーブ
「い
1」の表記がある。
いくつカーブを曲がると中禅寺湖に着くのだろうかと
数えながらペダリングいつしか体力も限界を越えた。
速度制限の表示板があちこちに設けられ、次の交通表示板までと目標を決めてはペダリングと手押しを交互に繰り返し坂道を進んだ。当初の計画では一息入れるはずであった明智平は予定時間を過ぎていたことで通過せざるを得なかった。 いろは坂は、やはり想像以上のきつさであった。
中禅寺湖に着いたのは予定のほぼ1時間遅れの1時30分過ぎ。 空腹もピークを過ぎ さっぱり系を食べたくそば店を探し 構えの立派な店を見つけるも生憎休みであった。
探しまわる気力も無く数件隣のそば店に。
メニューに目をやりながら、ちょっと栄養もと考え
舞茸ざるそばを注文。なんとこれが素晴らしいものであった。
大きく太った舞茸と野菜の天ぷらでカラッとあがっていた。そしてそばはきらきら輝き腰があり歯応えのある物で最高であった。
食事を終えた夫婦客の女性が
店を出る少し前に
「坂を上っている姿を見ましたよ
すごいのね」と。 68になって50年前に走った道を逆に走る計画を話すと
「え~68」 と ご主人も会話に入り 「俺にはできない」と 少し若い方だった様に見受けた。 客の対応に一段落様で女主人が奥から顔をだした。 「昨日まで天気が悪く寒かったのよ
今日はいい天気でよかったね」
気をつけてと店の外まで出て見送ってくれた。
湖畔の道は平坦でペダルも軽く
青春サイクリングそのものを感じた。
湖を過ぎる頃にはまた緩やかな勾配が始まり
むちを打つ感じでペダルを踏んだ。
道の両側は密生した雑木林であり
薄暗くもあり
今日の宿のチェックインに間に合うかとの不安もかきたてられもしたが、なんとか時間内に着くことが出来た。
湖畔に近い宿の最終チェックイン者だった様だ。
チェックアウトも早めにすまし、第二目標の金精峠へ、宿を出たメイン道路との交差点には、観光地にふさわしい立派な表示板が設置され、金精峠方面、沼田方面左折の表記に胸が高まった。 ほぼ予定どおりの10:30過ぎには最高高度地点の金精峠を極め、振り返って50年前に見た風景、中禅寺湖遠景を眺めることができ、満足しきりであった。 いよいよ沼田まで途中数十メートルの登坂が数か所あるも、約60キロのダウンヒルであり、当時テントや炊飯道具を携行しての逆登坂をした当時18歳の体力エネルギーに自分ながら大変驚かされるものであった。 峠を越えての楽しみは、あの公道臨時私設キャンプ設営地点を探し出すことであったが、50年間の樹木の生長は計り知れず、見当すらつけることができなかったことが残念である。
美しい自然に囲まれた道と、道すがら出会った多くの方々とのお話しに大満足のサイクルツーリングであった。